6歳

小学校入学


兄(1つ上)と姉(2つ上)がいる、年子3人きょうだいの末っ子なので

とにかく!早く小学校に行きたかった!!!!

ランドセルが眩しくて、宿題が楽しそうで、放課後友達と遊びに行けるのが羨ましくて(もはや無理矢理加入してたけど)、二人が「給食は、あったかくておいしいんだよね〜!」と盛り上がる度に、内心キイイイってなっていた記憶がある。

入学前は、幼馴染のお姉ちゃんたちや兄姉が、一生懸命足し算を教えてくれた。

ただIQが1だったのか何も理解できなくて、ひらがなだけひたすら練習していた。


入学式は、女の子たちはみんなフリルブラウスや黒の可愛らしいスカートやワンピース、白い靴下で決める中


茶色のワンピースに茶色のベレー帽


23区のものだったらしくて、チョイスした母や祖母はかわいい!似合ってるー!と盛り上がってくれていたけれど、


「あれ?わたしだけなんか服ちがくない?みんなみたいに、ふりふりが着たかった...。」と内心テンションが下がっていた。

大人っぽいカジュアルな子ども服を好む母。

カラフルな服を着る子がいる中、GAPやジーンズなどの男の子っぽい物も多くて、

これが後にロリィタファッションに目覚めるきっかけにもなった気がする。

(今思えばとてもかわいいけど、反動があるので、どんなデザインでも、大事な時には自分の子に服や持ち物は選ばせようと思っています。反動もそれはそれで素敵なことだけれども)


クラスは1年2組。

担任の先生がばっちばちに怖い

おばちゃん先生で、何かと

話題になっていた気がする。


クラスの男の子がみんなの前で先生に

イヤリングを付けられて、

笑い者にされていた姿を見て

震えたなあ...。

今思えば多分色々あったから

後に転校してしまったけれど、

悲しい思い出になっていないと良いな。

「わたしはこんな大人にはならない」と

子どもながらに思っていた記憶...


勉強や当番活動はめちゃくちゃ張り切って

頑張っていた記憶がある。

まぁ何事も最初だけですよね!(遠い目)

5歳

年長、園庭にあるハウスが好きで砂まみれでおままごとをしまくっていた思い出。
ゆりえちゃんとさらに仲良くなりずっと一緒にいた。
バレンタインチョコをあげる代わりにポケモングッズを交換しようと好きな男の子にせがんだら、一秒で担任にバレて呼び出され(メンタルを)ボコボコにしばかれた。
年長の担任まじで怖かった。
母曰くいつも汗まみれ砂まみれで走り回っていたらしく、相当な元気キッズだったと思う。
 あとなんかローラー滑り台でしりを熱くしまくっていた。
 
 家庭はどんどん破綻していって、父がブチ切れて(理由は覚えてない)食器棚からフリスビーみたいに皿投げまくって、母が足から出血してきょうだいで泣き叫んだのは強烈すぎて覚えている。まじで狂犬。狂った犬。
とにかくいわゆるDVがどんどん凄まじくなった。
大好きな母がスチール缶で殴られたり蹴られる姿を見るのは本当に辛かった。
 それでも父は子どもには優しくて、ピクニックランドに連れて行ってくれたり、映画によく連れて行ってくれた。漫画や本も沢山買ってくれた。
 家族で外食に行くこともあったけど、和やかに楽しい雰囲気で過ごすことはほとんどありませんでした。ただ、不仲なはずなのに結婚記念日だけは子どもを祖父母に任せて二人で出かけていた。いつもは険悪な雰囲気なのに不思議で仕方なかったけど、その日だけは笑顔で出かける母の姿が、子どもながらに嬉しかった。

4歳

4歳、幼稚園、年中さん

あまり覚えていなくて、名前が曖昧だけれど担任がくみ先生?という方で、優しくて、髪が黒くて、長くて、ウェーブで、いつもポニーテールの可愛らしい先生だった。

ある日みんなでくみ先生の周りに行って、わたしが背中側にまわり髪を触りながら、くみ先生の髪は、なんでかたいの?と聞いたら、これはワックスっていうのをつけてるんだよ〜って教えてくれた。

パリパリにかたまっているくみ先生の髪が大好きだったし、叱られた記憶もないし、いつも笑顔のくみ先生が大好きだった。


家庭の方は多分なかなかなことになっていて

父はあまり帰ってこなくて、父の話になると母の笑顔が消えて パパはお姉ちゃん大好きだからね〜 と話していた覚えがある。

でも家族で朝食によく目玉焼きを食べたりしていた記憶もある。

後で聞くと、母はこの辺りから鬱病を患っていたらしい。(鬱病との戦いは長く、この後10年以上続くことになる)

未遂を、母である祖母からの電話がタイミングよく来たことで思いとどまったのもこの時期だったと 大人になってから聞きました。

3歳

3歳
おさ〇め幼稚園入園。
年少の時は、いちご組🍓
兄が年中、姉が年長という
奇跡の全学年に在籍ファミリー(年子なので)

待望の幼稚園だったので、
毎日全力で遊んで帰って来ていたらしく
帰りのバスは、母が迎えに行くと
汗で髪がおでこにはりつき
帽子は脱げ
全身薄汚れたボロボロで爆睡していて
先生に「おりるよ!!」って
叩き起こされていたらしいw


椅子を丸く並べて、朝の会とかしていたのを
すごく覚えています。
あとショートカットの
若くて優しい先生だった。
名前はなんだったけなあ。

もちつきとかクリスマス会とかの
イベントが楽しかったけど
わりと教育的な園だったから、
サッカーとかスイミングとかハーモニカとか
バイオリンとかパソコンてきなのとか
もう色々やらされて毎日いそがしかった記憶


名前の順番が近い
ゆりえちゃんという仲良しのお友達もできて
3年間同じクラスなのもあってずっと一緒で
帰りのバスも一緒で
幼稚園の自由時間には
園庭のハウスでおままごとをしたり、
二人でお絵かき帳を持ってきて
なぜかよく床でお絵描きしてました。
ゆりえちゃんは絵が上手で
やわらかくて、優しい絵を描いていたのと
性格もおだやかで
喧嘩した記憶が全然なくて
大好きだった思い出があります🌸


そして初恋も経験(はやい)
当時、激ヤンチャ坊主だった
たいしくんという子に一目惚れ👦
髪が茶色っぽくてつんつんしてて
活発で強気でロックだった!

彼も3年間同じクラスでずっと好きで
バレンタインチョコを毎年
子どもながらに緊張しながら
あげていました🍫
今思えば、細目フェチなのは
あの頃からだったんだ...

他のアイドル級に可愛い子を
好きだという噂(あくまで噂)を聞き、玉砕。



二人とは卒園後は別の小学校になり
6年間会わなかったけれど、
なんと再会した中1の回で...☝️

2歳

こちらも記憶にございません。

が、海によく行っていた時は
2歳くらいからの記憶もある気がします。

赤ちゃんのときかららしいけど
物心ついた時にはすでに
サザンオールスターズ大ファンな母と
きょうだい2人と
茅ヶ崎江ノ島あたりは毎月のように
母の運転でドライブに行っていました。


必ずサザンを聴きながらのドライブ
(たまにビートルズやオアシス)


母はよくサザンの「太陽は罪な奴」という曲を
流していたのだけれども、
「高気圧はビーナスたちの交差点」
という歌詞を、そらみみ?で覚えて、

「こーきゃ、ピーナッツ立場の交差点〜♪」

って3人で合唱してたなあ。
ピーナッツの立場は考えたこともなかったな

あとオアシスのSome Might Sayも、

「さんまんいっせ〜えん♪」って歌ってたw


当時は、たしか七里ヶ浜にあった
あす〇ろという喫茶店の(〇→な)
テラスで、海を見ながら
ホットケーキを食べて

近くのセブンマ〇ルズという
サーフ系の雑貨屋で(〇→イ)
母の買い物待ちの間、
表の道できょうだいと遊んで、
帰りはビビッドなカラーフィルムのきれいな
ラムネをいつももらって食べて

ズボンをまくって、海辺で足だけ浸かって
貝を拾って砂に落書きして遊ぶ
というのが、お決まりの休日でした。

おかげで今でも海が大好きで、
定期的に海が見たくなります。


セブンマ〇ルズは大人になってから
行って、店員さんに思い出話をしたら
また来てくれてありがとう!と
あの頃と同じラムネをくれました🍬
懐かしくて 嬉しかったなあ。

あす〇ろは閉店してしまったのが悲しい...
すべてが思い出深く、大好きなお店でした
優しいおばさんにまた会いたい。

茅ヶ崎七里ヶ浜江ノ島
またいきたいなあ。
江ノ電もまた乗りたい。


あとは
母から聞いた話だと、2歳頃は
兄姉が幼稚園にバスで行くので
まだ入園していないわたしが
毎朝、送りのバス停で

「〇〇も一緒に幼稚園行くーー!!!!」

と大絶叫して地面に寝転がり
号泣して、バス担当の先生に
「〇〇ちゃんは来年になったら来てね」
と毎回優しく諭されていたらしい(はずかしい)


いまや、自分が諭す側になっているとは...。
てか、絶対幼稚園で話題になるタイプの子どもやん...


職種はちょっと違うけど、
自分が保育の道に行くとは、1ミクロも思ってなかったなあ。


あと、シルバニアファミリー
超マニアだったのだけど、
(プレゼントとかも毎回お願いしてたから、
暖炉だけで5個くらい持ってた)


いつもシルバニアで遊んでいる時に

「〇〇はおでかけしてくるから、
ママは屋根の上で見張りね!」

と言って
母に人形を渡し、見張りをさせていたらしい。


家で周りの目を気にするなんて
2歳にして
すでにジャンキーだったのかもしれない...。

1歳

1歳

こちらも、
記憶にございません。


書くことなくなっちゃうので生まれ育った家のことを。
日当たりの悪い場所だったけれど、今思えば、駅から徒歩5分のすばらしい立地


父はすでに、あまり家にいなくて
ほとんどの時間を母、兄、姉と
母がいない時は同じマンションに住んでいた曽祖父、曽祖母といたと思います。


私の住んでいた小さなマンションは
板金屋だった曽祖父が建てたものでした
(母が幼い頃は平家に住んでいて
もっと大勢で住めるようにと
マンションにしたらしい)


構成(当時)

1階→曽祖父、曽祖母の家
祖母の経営する飲み屋

2階→我が家
大叔母と娘2人の家
祖母の元旦那(母の父で、私の祖父)...の弟の家(もう意味不明)(でもかなり交流してた)
若いイケイケお兄さんの家

3階→後に父となる人の家
その人のいとこの家
その人の親戚の家

離れ→祖母と叔父(母の弟)の家


というほぼ身内で構成された
特殊マンションで育ちました。


家の近くや、
街のどこへいても

「〇〇ちゃん元気?」
「また大きくなったねー」
と声をかけられる生活でした。


登場人物が多すぎて、複雑すぎて
間柄が分からなかったり、
誰か分からないこともよくありました。
(とりあえず、愛想振りまいてた)


仲の良い友達は知ってるけど
住民のほとんどが、見えたことのある
いわくつき?マンション(現在進行形)


聞いた限りの内容👇全てマンション内
人のように書いていますが、全て違います



玄関鍵閉まってるのに廊下に男性が来た(母)
屋上にいたら知らない女性が来た
でも階段の降り方がおかしい 滑ってる(母)
いま誰か壁に消えていった(母と姉 同時に)
誰かいま後ろから見てるよね( 〃 )
仏間に白い人が入って行った(兄)
夜中に黒い男性に乗られて死にかけた(母)
トイレに向かう白い女性がいた(姉)
寝てると揺さぶられる(母、姉)
ベランダに男性がいる(住民)
知らない子どもがいま後ろを走ってた(住民)
天井から大きい顔が落ちてきた(住民)
階段登って来た音がしたから行ったら誰もいない(叔父)


引越してよかった....
(まだ身内住んでるけど...)


神社のすぐ近くなので、
霊気的なものが集まりやすいのも
関係がある気がします。


ちなみに建設中から夜中になると
不審な音を叔父が聞いていたそうです。

0歳

(あげなおし)

今年で30歳という
ある意味節目の年なので、
人生記録を始めます✏️
今までの人生を振り返る!


そこそこ波瀾万丈なので
かなり重い内容になりますが、
書き連ねることで
関わってきた人への感謝や
身近な幸せに気付けたら良いなあと思う!


というわけで
0歳🍼


1991年12月22日 雪の降る日の夕方
八王子市北野町の
沼○医院にて生まれる。(○→崎)


1つ上の兄、2つ上の姉も取り上げてもらった、ご夫婦で開業されていた
小さな小さな病院。

母は第一子(姉)の出産の時は、21歳
あまりの痛さと苦しさに
痛いと叫び続けていたら、
沼○先生(男性のご年配医師)に
「これから母親になるのに弱音を吐くな!!お腹の子だって頑張ってるんだぞ!!!」
と喝を入れられたらしい。


妊娠期間からかなり厳しい先生で、
出産のこの一言でさらに
「どれだけ苦しいか分からないくせに!クソジジイ!」と怒りが湧いた母だったが


「あの沼○先生の一言があったから、
産んでやるって、死ぬ気でがんばれたから
先生には本当に感謝してる。
厳しいけど、優しい先生だよ。」
と常々話していた。


私の出産は、
臍の緒が首に絡まっていたらしく
かなり危険なものだったらしい。


「生まれる時に本当に痛くて大変だったから、その分、本当に可愛かった。本当に、天使かと思って。」
と言われていたから、多分、すごく可愛がってくれていたと思う。


「生まれる時に楽だった(比較的安産だった)兄は、生まれてからが大変だね...」
とも、よく話していた母です(悲)



沼○先生、小学生の時も私の大怪我で
お世話になるのですが(それは小3の回で書く)


私が中2の時に母が
風邪をひいた時に、なんとなく顔が浮かんで
いつも行かないのに沼○医院に行ったら

看護師の奥様が出てきて
「先生に風邪を診てほしくて」と伝えると
とても驚いて、涙されながら


「先生、昨日亡くなっちゃったの。
きっと先生が会いたくて呼んだのね。
まだ中にいるから、会ってあげて」と言って
通してくれて、お別れをしたという話がある。

当時、私もそれを聞いて衝撃!
中1で病院のある街からは引越していたので、
小3の怪我以来、一度も行っていかなかったから。


母は昔から胸騒ぎみたいなものが
強く現れるタイプなんだけど(霊感強め)

縁や、人の念って本当にあるのだなあと
思った話でした。


沼○先生、無事に取り上げてくれてありがとうございました。
きょうだい3人も、母も、生きています。


記憶は特にないですが、
きっと見守られ愛されて育った0歳でした。